アマゾンプライムで配信中の「ルックバック」(2024)(58分)を鑑賞。
あらすじ
小学4年生の女子生徒・藤野は絵を描くのがうまく、学年新聞の4コマ漫画を描いていた。器用な藤野は運動なども得意で、クラスの人気者で人生は順風満帆。
ある日、藤野は教師から、こう言われる。
「2枠ある4コマを1枠京本に譲ってくれないか」
京本は人が怖くなって不登校になった女子生徒。
どうせ大したものは描けないだろうと高を括っていた藤野だったが、彼女が提出してきた4コマはクオリティの高い、ひたすらに風景を描いたものだった。
藤野は対抗心からひたすらに絵を基礎から学ぶ。
しかしクラスメイトからも家族からも理解されず、努力しても追いつけない京本の画力に、藤野は6年生で一度漫画を描くのをやめ、以前までのような生活に戻る。
そうして迎えた卒業式の日。
藤野は担任から京本の卒業証書を届けてほしいと言われる。
渋々引き受けた藤野が京本の家で見たものは、おびただしい数のスケッチブックだった。
そこで彼女が気まぐれに描いた4コマが、偶然京本の部屋に入り込む。
それを見た京本は逃げる藤野を追いかけて、こう話す。
「藤野先生!私!藤野先生のファンです!サインください!」
そうして出会った二人の少女が『創作者』として共に歩んだ、青春と離別の物語。
感想と考察
創作の意味と、そこにかける情熱を、熱く、爽やかに、そして切なく……社会問題なども踏まえて真正面から描き切ったといっても過言ではない本作。
正直、筆者は映画化の話題が出たときには、「これは漫画という媒体で、この尺だからこそ名作なのでは?」と、映像化には懐疑的でした。
しかしまあ、完璧に適切な尺に適切な描写を加え、原作の雰囲気・読後感を完全再現してきて、正直ひっくり返りました。
映像だからこそ映えた演出もありましたね。
他の映画に絡めた考察などは多数目にしますので、そちらを参照していただいて、私は特に印象的だった映画版での改変について語りたいと思います。
漫画版では右利きだった京本を、あえて左利きに改変してきた点です。(※ただし漫画でも魅せコマで1か所、京本が左手で絵を描いてるカットがあります)
京本が「左利き」に改変された意味
天才と努力の人というカテゴライズ
まずはわかりやすく、これかなと思います。
二人とも天才ではあるのですが、京本は無邪気に「努力を努力と思っていない」「自分の才能に気づいていない」という点において、藤野よりやや格上の天才として描かれています。
また、漫画を見る目も確かで『藤野がどのような努力をしてきたか』を絵と漫画の内容だけで完璧に見抜き、それを直接本人に語ることで、藤野が「理解者を得て、努力が認められた」「その理解者は自分が目指してきた人物その人だった」と、また漫画に向き合うきっかけを与えます。
京本は、絵や漫画からその人の努力が測れて、正確に描写の意図を読み解いているんですね。
この時点で漫画の天才です。
実際に後半で、藤野がアシスタントに対して「もう少し考えて描いてほしい」と編集を通して伝える場面が映画オリジナルシーンとして追加されており、京本が『演出意図を汲んだ背景を描いていた』と推察できるシーンがあります。
商売道具は繋いで(離して)いないという演出
個人的には、ここがエモだなと思います。
ジャンプの新人賞の結果発表を見に行くシーン、その賞金で遊びに行くシーン、そして京本が美大に行きたいと手を放すシーン。
二人は、手を繋いでいます。
漫画版では、手を繋ぐシーンはそれぞれ、
・新人賞確認➡藤野、京本ともに利き手
・遊びに行く➡藤野、京本ともにnot利き手
となっているのですが、映像版だと、
・新人賞確認➡藤野/利き手、京本/not利き手
・遊びに行く➡藤野、京本ともにnot利き手
・手を放す➡藤野、京本ともにnot利き手
となります。
要は映像版では、基本的に、京本と藤野は、利き手=商売道具を繋いでいないんですね。(海のシーンワンカットのみ利き手を繋いでいるとは思われますが)
背景担当と人物・ストーリー担当と分業していたこともあると思いますが、これは要するに、二人が離した手は、『漫画家として目指す方向性の違い』で離されたものではないという描写かなと思います。
映像的にも、歩く速さ(生きるスピード/絵を描くスピード)の違いで手を離したような演出になっています。
おそらく二人とも、到達する速度は違うにしても、『創作者として目指したい方向性は同じ』だったのでしょう。
だから、後半のif世界でも二人で漫画を描かない道は描かれない。
二人はまさにベストコンビだったのでしょう。
それだけに後半の展開が辛い…
藤野がそれでも漫画を描く意味
利き手考察にとどめようかと思いましたがこれだけは一応見解を書かせていただきます。
藤野が「描いても何も役に立たないのに」とまで絶望しながらも、漫画を描き続ける意味。
その後に京本との青春が絵のみで思い返されるように、『京本(のような存在)のため』なのは言うまでもありません。
では、藤野にとっての『京本のような存在』とは、どういう存在を指していたのか。
ずばり、『普通に生活していたら関わりを持つことができなかった人』というのが筆者の見解です。
普通なら届かないところに、声を届けることができ、どこかでその人が、京本のように自分を理解してくれているかもしれない。そんな人に自分の声を届けたい。伝えたい。
彼女は、漫画という媒体を通したコミュニケーションが好きだったのでしょう。
伝えたいことがある創作者は強い。
そんな、ずっと漫画家としてやっていけると確信できる境地に、奇しくも京本との離別で、藤野は到達したのでしょう。
まとめ
というわけで、漫画の読後感・テンポ感・全体の雰囲気を余すことなく再現し、内容をさらに補完している、映画版「ルックバック」……
本当にこれは、漫画読んだからいいかな、とか思わず是非とも見ていただきたいです。
媒体が違うのに、受ける感動が同じってすごいことなんですよ。
個人的には、喜の演出が基本的にセリフがないBGMのみのシーンで描写され、全編静かなしっとりした雰囲気になってるのも、淡々と説明することなく絵で魅せてきた原作踏襲していて、好きポイントでした。
これだけでもう1ブロック書けそうなんですけど、割愛します。
利き手が左手の考察と銘打ってしまったので…
まあ、とりあえずですね、ほんと、ぜひ、みて!!!
創作の情熱のすべてがドラマチックに描かれているので!本当に!損しないんで!!!
58分と短めですので!!!体感3分の名作です!!!
ここまでお読みいただきありがとうございました!
本編、見てね!!!