幽霊や怪異――ひいては差別などは、自分の知識や常識では説明がつかないものに名前をつけることで発祥しました。
この作品はその「ラベリング」を観客にゆだねるという珍しい構造をしています。
「怪物」を生み出すのは「誰」か。
構造上、その問いは深く観客に突き刺さる。
これが、この作品の「牙」なのです。
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◇イントロダクション
この映画は演出・脚本構成ともに、「見せない」ということを徹底しています。
・画面外での出来事
・他者の視点
・役者の目線の先
・真実と結末
本作は3つの視点で同じ時間軸を順にみていく構成なのですが、
どの要素も、一度は「観客の想像」にゆだねられる。
冒頭で書いた通り、これは一種の「恐怖の演出」です。
観客は見えない「画面の先」を想像する。
そして、そこに「怪物」を見る。
これが、この映画の本質と言えるでしょう。
そして、最後まで説明ではなく「出来事」として描写されるのみの「真実」
この映画では、その理解を演出的に強く支えるものがあります。
それが、「音」です。
本記事では「音」という観点から、物語構造を見ていきたいと思います。
①保護者パートの「音」~無音がうむ「拒絶」~
まずは麦野母の視点のパート。
夫を亡くしたシングルマザーである彼女が、最愛の一人息子に感じる違和感から、「学校で何かがあった」ことを知り、息子のために奔走します。
このパートで強調されるのは「無音の演出」
音がないのではありません。
・衣擦れの音
・ベッドのきしみ
・階段を踏む音
・アイロンのスチーム
・握ったペットボトルの音
・水を嚥下する音
これらが強調されることで、観客は「無音」を感じる。
彼女のパートは全編通してこの演出が際立っており、3つの視点の中で一番不穏なパートとなっております。
特筆すべきは「無音」が際立つシーンでは、彼女が「誰かに拒絶・あるいは嘘を提示されている」という点。
教師の暴力について相談する学校のシーンなどが顕著なのですが、注目したいのは、初めて「明らかに大きな音で入るノイズ」です。
これが実は、彼女が「何があった?」と問い詰める時に、「息子が手にしたペットボトルを握る音」なのです。
2周するとわかるのですが、このシーンの問いには、明確な答えがありません。
つまり、この場面は優しさから母に嘘をつくシーンなのです。
そしてこの嘘が大きな認識の齟齬と歪を作っていきます。
その後も、彼女が問い詰めることで、多くの人物が、初見では知りようもない「嘘」をつく。
これらのシーンでもノイズは不穏に強調されます。
要は
保護者パートの脚本上の役割は、観客を疑心暗鬼にすることなのです。
観客は息子を案じる母と一緒に、真実を探り、騙されていく。
そして無意識に探すのです。
「怪物」は「誰」だ、と。
②先生パートの「音」~雑踏が示す「本質」~
転じて先生視点のパート。
これまた時系列で、今度は新任教師の保利が誤解されていく様子が描かれます。
ここでも派手な音響はないのですが、母親パートと異なる意味を持つ音があります。
それが、子どもたちの声=ガヤ
彼の周りでの「子どもたちの楽しそうな声」が序盤に入ります。
これが、彼がどんどん誤解されすべてを失っていく中で、一番の「彼の人間性」の指針になります。
ストーリーだけみても、彼が不器用な善人であることは疑いようがありません。
そして
脚本上のこのパートの意義も、観客の視点を一度逆転させること。
つまり、同じ転落への物語で、母親パートと違う印象の保利先生を見せなければいけない。
その上で提示される、彼が深くかかわることがない状態における、彼の周囲での同調圧力や、誰かをかばう意図のない素直な子どもの声。
これ以上、彼の善性を明確に示す演出はないかと思います。
まさに、音で示される「彼の本質」です。
そして、このパートで観客の疑問は深まります。
「怪物」は「誰」だ? と。
③子どもパートの「音」~名前を得る「正体」~
最後の子どもパートでは、ここまで2視点で描かれた出来事の隙間が埋められて新しい意味を持っていきます。
いわば、答え合わせパート。
ここで、物語は優しい後味の話に変化します。
その象徴としてわかりやすいのが、管楽器の音。
保護者パートでは、
「息子が飛び降りたかもしれない」という絶望のシーン
先生パートでは、
「自身が飛び降りを考える」すべてを失ったシーン
においてそれぞれ印象的に響いていた音です。
死の象徴のようなこの音は、子供パートにおいては、
それまで内面を持たないように描かれてきた校長と
麦野くんの交流場面になります。
それが、校長が彼の嘘を受容し、
「誰にも言えないことは、ふーって」
と、嘘を音にすることを提案するシーン。
これまで歪に、不穏に響いていた管楽器の音が、ホルンとトロンボーンという名前を得て、不気味な音ではなく、救いの音に変わるシーンです。
脚本的にも転換点にあたり、
観客の中で、この物語の色が再定義される瞬間かと思います。
そして、子どもパートの音についてはもうひとつ特筆すべき点があります。
ここまで存在を主張してこなかった感情に乗せた、「明確なメロディーを持った音」が「シーンの主役」として流れるのです。
今まで見せてきたのは「断片」であり、これが「ストーリーライン」であると示す演出にあたるかと思います。
この一連の流れで観客はついに「怪物」の正体に気づきます。
これまで自分の知らない部分を想像で補完し、
意味付け=「ラベリング」をしようとしてきた「怪物」は
想像通りの意味なら、自分の頭の中にしかいない「虚構」であり
――実際はこの子どもたちの刹那的な関係性を
「怪物」と定義しようとし続けていただけだということに。
④子役が作った「感じない」世界
この物語は、「ない」ものを「見せない」ことで、
あたかも「ある」かのように受け取らせ続ける構成をしています。
その構造にピタリと合致するキャラクターがこの作品には登場します。
それが、麦野が心を通わせる少年「星川依里」です。
当時若干11歳の子役が演じたこの少年は、内面が読めそうで読めない。
それもそのはず。
彼が演じるそのキャラクターは端的に言うと
「集中していない」「何も感じていない」のです。
だから彼の演技はそこにある事実を表すだけで、
「伝えよう」「説得しよう」「魅せよう」という、
この映画においては「ノイズ」になる役者としての感情がのらない。
つまり、11歳の少年は自然体を通り越して、
「役が何もしていない状態」を演じていた、ということができます。
(これはこれで、正直とんでもない「怪物」といえます)(本当に)
この読めなさを読もうとして、
観客の「怪物は誰?」という疑問は迷走する形になります。
彼を象徴するやりとりがあります。
お互い頭に動物の札を掲げ、相手の出すヒントから
自分の手にする動物を当てる「怪物だれだ」のシーンです。
星川「すごい技を持ってる」
「君はね、敵に襲われたときに、体中の力を全部抜いて諦めます」
麦野「それは技じゃない」
星川「感じないようにする」
麦野「……僕は星川依里くんですか?」
彼をラベリングすることが難しいように、
この物語をラベリングすることは難しい。
彼こそ、刹那に名前をつけることの愚かさを、
「怪物」を生み出すその問いを否定する
――この映画のテーマを背負ったキャラクターなのです。
◇まとめ
「ラベリング」の危うさを参加型ともいえる構成で説いたこの作品。
明確に言葉で定義しない代わりに多くの演出で「空気」を伝える
監督の力量を否応なしに感じるものになっています。
「予告編であなたの想像した「怪物」はいましたか?」
そんな監督の声が聞こえてきそうです。
ここまでお読みいただきありがとうございました。


