「岸辺露伴は動かない 懺悔室」2025を映画館で鑑賞。

今作は、漫画版「岸辺露伴は動かない」第一作のファン待望の映像化。
ベネチアを舞台に、前半で漫画版のエピソードをメインに展開した後、後半を完全オリジナルで描写した厚みのあるストーリーに仕上がっています。
特筆すべきは、過去イチ岸辺露伴が『動かない』ことが強調されたストーリー構造になっている点。
――どういうことか、順を追って構造を見ていきましょう。
あらすじ
舞台はイタリア。
人気漫画家・岸辺露伴(高橋一生)はベネチアを探索し、仮面職人の日伊ハーフの女性(玉木ティナ)と出会う。女性は幸薄げに、物事の表裏一体な面について静かに語る。
その後露伴は偶然「懺悔室」に来た男の告解を聞くことになる。
男は過去に浮浪者を死なせてしまったことと、その男に「幸せの絶頂のときに自分以上の絶望を味あわせる」という呪いをかけられたことを語る。
その日から幸運に襲われるようになった男は、ずっと「幸運という恐怖」にとらわれ、常に最高の幸せを回避して生きていた。
しかし、幼い娘・マリアの無邪気な姿をみた男は遂に「幸せ」を感じてしまい、呪いが発動する。
彼は「街灯より高く投げたポップコーンを3回連続口でキャッチする」という、審判を受けることになる。
結果は3度目で失敗。
逃げ惑う彼は、その道中で不運な事故にあい、命を落とす。
――では、告解をしに来た男は、一体誰なのか。
露伴は能力・ヘブンズドアーを使い、男の正体を読む。
男は破格の報酬で付き人と顔を入れ替え、生き延びていたことが判明する。
同時に、浮浪者に加え、入れ替わりで犠牲になった男にも呪われており、呪いが「娘のマリアが幸せの絶頂のときに、絶望を与える」というものに深化していることも……。
呪いに触れた露伴もまた、呪いによる「幸運」に襲われることになる。
そして、結婚を明後日に控えた仮面職人の女性こそが、父親に「幸せになってはいけない」と教育されてきたマリアだと知る。
露伴の呪いとの闘いが始まる――。
感想と考察
制作が決まった当時から、「誰がポップコーンキャッチするの⁉」とSNSがざわついた今作。
結果として、前半のストーリーは原作に忠実に見知らぬおじさんのポップコーンキャッチ、そして、後半にオリジナルキャラクターを据え、その後を人間ドラマとして描くという構成になっていました。
この記事では、「告解の男」(※名前の表記に迷ったためこの表記でいかせていただきます)、「娘・マリア」そして「岸辺露伴」の3人について、作劇上の役割をメインに深堀りしたいと思います。

以下、ネタバレ配慮していません。
異なった「成長」を見せる3人の主要キャラ
告解の男=作劇上の壁 ~成長の拒否による救済対象からの致命的な離脱~
漫画版の実質主人公であった告解をしに来た男。
彼のその後の運命は漫画版では語られません。
しかし序盤では、「(呪いという縛りがあったにせよ)人を死なせてしまったことを深く悔いている」ともとれる精神をしており、まだ同情の価値のある人物として描かれます。
彼が、作劇上の救済の対象から外れた変化ポイントは2つほどあげられます。
❶中盤、娘・マリアに「幸せになってはいけない」という「呪い」をかける人物に変化
呪いによる幸運を恐れるあまり、男は中盤以降「自分が絶望を味あわないために、娘にほんの少しの幸せの回避」を強い続けます。
あえて縁起の悪いものを身につけさせたり、一番欲しいものを与えず、手に入れても奪ったり……と、その行動は娘から見たら異様なものです。
彼は、マリアからみたら、まさに呪いだったでしょう。
普遍的な表現に落とし込むなら親の呪縛です。
だから、マリアの幸せが「結婚」=「親からの離脱」であることが自然に受け入れられます。
つまり、この段階でどう解釈しても、「マリアにとっての乗り越えるべき壁」=「悪・障害」という役割になってしまっているのです。
❷最終的に娘の悲劇を「救済」と捉えたことで、呪いそのものに
これが、もうアウトです。
彼は、最終的に娘の悲劇に「これで助かった……これで……」と、救いを見出し去っていきます。
この言葉が意味するのは「作中での思想の変化」=「成長」の放棄です。
救われるべき主人公サイドの人間には「作中での成長」が不可欠です。
その人物が「欠け」や「壁」を抱えた人物であればあるほど、その要素は必須。
つまり、「呪われた男」が呪いを回避するには「ポジティブな変化」がなくてはいけなかった。
おそらく、多くの視聴者は彼の悲劇的な終わりに、理不尽さや不満感、筋としての納得のいかなさは感じなかったのではないかなと、筆者は予想しています。
その最大の理由は、「彼が成長せず、娘にとっての障害であり続けた」点にあると思います。
「娘にとっての呪い」という『役割』を最後まで持ち続けてしまった。
これがある意味、彼にかけられた呪いの本質なのではないかと思います。
娘・マリア=形式主人公 ~作中で一番成長(変化)し救済を得る~
映画オリジナルキャラクターのマリアですが、その役割は実のところ「作中で一番変化する、形式的な主人公」といえます。
彼女がこれまでの人生で一身に受け止め続けたのは、親から与えられる呪い――言い換えれば、いびつな愛です。
その点において、呪いは「毒親のメタファー」ともとれます。
彼女もまた呪われた存在ではあるのですが、劇中で彼女は救われ、父親とは真逆に、今後は「幸運に襲われない普通の幸せ」を手に入れると示唆される描写で終わります。
ストーリー自体も、マリアとの出会い→マリアの正体および現状の判明→父親からの離脱作戦→その後のマリアを示唆する描写、と、マリアを通して全体を俯瞰することができます。
これは、彼女がこれまでずっと、
「父親の呪縛から解放されるために行動し続けていた」こと
(仮面職人という「完成しない」職業選択)(運命の人との新しい道の選択=親からの離脱)
そして、
「その成果が劇中の時間軸でついに収束した」
(仮面職人を選んだ理由を思い出し言語化)(結婚)
という、「成長=変化」が作中で強く描かれたことによります。
要するにこの映画は、「マリアの成長を軸にした怪異譚」なのです。
岸辺露伴 ~変化しない完成された主人公~
はい、ここまでで疑問点がわきますね。
岸辺露伴、作中で変化してなくない?
そうなんです。
タイトルを占拠しているにも関わらず、彼は「最初から完成された主人公」であり、作中で成長はしません。
だから、マリアのようなストーリーの流れを見せる動力になるキャラクターが配置される必要があった。
では、なぜ岸辺露伴は、成長しないまま主人公足りえたのか。
これは、大きく2点があげられると思います。
❶「乗り越えるべき壁=呪い」に彼の「美学」が反していた
中盤、呪いによる幸運で、露伴の漫画が評価されるシーンがあります。
これに露伴は強い憤りを感じ、呪いを破る決意をします。
つまり、彼の「美学」の変化はないままに、呪いとの対立構造が成立してしまったのです。
これが、マリアを救う原動力にもなります。
そして、その「美学」が、常人とはちょっとかけ離れた漫画への執着=彼の魅力のコアであることが、岸辺露伴を強烈な主人公キャラとして立たせているのです。
❷そもそもが「動かない」と明言された主人公である
今まで高評価ながら、散々「岸辺露伴は動きまくる」などと評されてきたテレビシリーズ。
しかし、今回の岸辺露伴の描写は、「美学」に変化がないという点が強調されたという面からみると、かなり「動かない」主人公だったのではないかと思います。
むしろ、彼が動く動機が「自身の美学を動かさないため」とも言えます。
この構図が成り立つポイントは以下の通り。
①美学が魅力的である
②成長しなくてもいいと思わせるキャラメイク

露伴ちゃんがこれを満たしていないわけないじゃあないかッ
というわけで、漫画シリーズ第一作の映像化で、彼が動かない(変化しない)ことが「タイトル回収的な要素」として描かれたのは、筆者的にはとても高評価だったわけです。
まとめ
というわけで、今作は、
①悪い変遷をたどるメインキャラ=告解の男
②成長を見せる形式的な主人公=マリア
③完成された主人公=岸辺露伴
というメインキャラ三段構えの脚本だったなあというのが、全体を俯瞰しての感想になります。
キャラクターの心情変遷で見ると、こんな見方もできるんだなあと、頭の隅っこにでもおいていただければ筆をとった甲斐があります。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。