「リバー、流れないでよ」(2023)を視聴。
製作は、劇団としての活動をメインとしたヨーロッパ企画。

事前知識なしでみましたが、
良質な舞台を見た気分になる作品でした。
今回は、この「まるで舞台脚本のような物語」がなぜ「映像作品」として発表されたのか、という視点での考察をしていきたいと思います。
ネタバレしておりますので、未視聴の方は一度ご覧になってからの閲覧を推奨します。
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舞台的なストーリー、舞台的な芝居、舞台的な演出
物語の舞台は貴船の旅館・ふじや。
まずここで、登場人物が「今」何をしていて「これからどうするのか」が開示されます。
事件が起きるのは冒頭9分6秒の暗転。
登場人物の人数を考えるとかなり巻いた展開です。
仲居のミコトは客室から、旅館の脇を流れる川岸に「戻り」キツネにつままれたように同じ行動、同じ会話を繰り返す。
番頭も、同じような反応。
3週目で彼らは早々に理解する。
自分たちは同じ短い時間――2分間を「ループ」している、と。
◇脚本・行動範囲の舞台らしさ
ここから加速するテンポがなんとも「舞台的」
外からの専門の解説が一切入らない中で、「困惑する宿泊客に、何も否もない旅館のスタッフが状況を説明してまわる」というロールを完璧に活かしたコメディの形でごく自然に全登場人物、そして観客に、
「原因不明の異常事態で、今ここでは短い時間が繰り返されている」
という大前提が共有されます。
(めちゃくちゃ上手い回し方です)
そして、物語は最後まで、
【旅館・ふじやの川岸から2分でいける範囲】
という制約の中で展開していきます。
この物語は端的にいうと「シチュエーションコメディ」
舞台セットはたった1つ。
そこに集う演者たちが、それぞれの役のドラマを演じ、【異常事態からの脱出】という共通のドラマに収束させる。
主人公はいても、演者ごとに背負うドラマ・役割の比重が均一という点では学生演劇からの延長にある雰囲気すら感じます。
特筆したいのが、シーンごとに登場人物がグループ化されている点。
主人公が全員とかかわるため見えにくいのですが、この物語では、狭い範囲の話であるにもかかわらず、「同じ場にいる」以上の接点を持たない人物同士が、並行してドラマを進めていきます。
これは、舞台における個別稽古のような構造に近い。
一つの舞台空間を共有しながら、登場人物たちはそれぞれ別の目的・別の動線で動き、物語の終盤になって初めて、「全員がこの場にいる意味」が立ち上がる。
この収束のさせ方に、強い舞台らしさが感じられます。
◇演技・演出の舞台らしさ
芝居や演出から感じる印象もいい意味で「舞台的」
それぞれ「ここでは彼が主役」というシーンはあるのですが、基本的には、軽快なセリフ回しと行動・動きで【ストーリーラインを見せる演技】が多く、実は「映像」である割には沈黙や間、アップで魅せるシーンは少ないです。
つまり、
各々がシーンごとに、脇役と主役を切り替えながら、
引きで物語を回しつつ、自分のキャラを立てている。
いかにも舞台的な「カメラが寄らない前提」の演じ方かと思います。
また、映像については
セットではなく実際の建物で撮っていることもプラスに働いています。
この作品、
ループ中のカメラは1台で、映像が途切れることがない
という手法をとっています。
そのため、狭い階段のシーンなどでは、演者が階段を上るのに合わせてカメラが少しぶれながら追って撮影するのですが、
これが主人公を客席から目で追って、一緒にその時間を体験しているような気分にさせる。
また、撮影日が雪なら「世界線が違う」と一言で表すのみで、同じ心情のシーンをまとめ撮りしている点などには、舞台上でのアクシデントをアドリブでカバーしたような雰囲気を感じる。
おそらくこれらは、意図して残された「舞台らしさ」だと推察しています。
映像という媒体に媚びていない。
おそらく『元は舞台脚本として考えたネタ』なんだろうなあと感じるものがあります。
――ではなぜ映像で?
この問いには、2パターンの答えが推測できます。
1つは「舞台上の障害」のため。
もう1つは「映像でしかできないことをやりたかった」ため。
順番に見ていきましょう。
このネタを『映像で撮った理由』の考察
解釈1:舞台で演る上での大きな障害と、映像という手段
暗転という壁
この内容を本当に舞台でやろうとすると、立ちふさがる大きな壁があります。
それが物語の肝である2分ごとのリセット=初期位置への配置
――つまり「暗転」の回数です。
他の方法もあるでしょうが、台詞のニュアンス、映像での処理の仕方を見る限り、脚本がイメージする転換は、暗転が一番近い。
ではこの頻度で暗転が起きるとどうなるか?
物語がぶつ切りになります。
テンポも悪くなります。
細かいニュアンスや笑いが成立しません。
そして何より、観客の集中力が切れます。
脚本にもよるでしょうが、暗転はそう多用はされません。
むしろ使われるのは、ここぞというときの切り替えです。
強調・観客の期待や想像を煽る間、という意味を持つこともあります。
この映画の場合、そうではない。
初期位置に戻る、という、物語の核でありながら
・だんだんと慣れていくものであり
・前のシーンを明確に引き継ぐもの
つまり、暗転による観客への効果は、本作ではノイズでしかないのです。
映像という、手段
正直、このネタはいくらでも膨らましようがあります。
舞台を2分でいける狭い範囲に限定しなければSF大作になるでしょうし、様々な角度から、様々なドラマを用意して描くことは不可能ではないです。
つまり、「映画」に「最適化」することも容易な種を使い、
あえて映像で「本来やりたい話」=「舞台的な話」を演った。
この解釈(舞台で実現できない脚本先行)では、映像という媒体は、この物語を成立させるための手段として使われてるといえるでしょう。
だから、演者も演出も脚本も、「これは映像である」という前提に立たない。
彼らは皆、あたかも舞台であるかのように作品を形作る。
そしてそれが、
「リセット以外でシーンが途切れない86分間」
を成立させ、観客を引き込み、集中させる。
このいかにも「舞台的」なところが、この種を見事に咲かせているのです。
これが、「舞台として構想したネタがあり、舞台では成立しないため映像を選んだ作品」と捉える解釈です。
解釈2:長尺が撮りたい!映像起点の脚本
続いて、もう一つの解釈です。
こちらは一転して映像先行で、
「長回しを何度も繰り返す映画を撮りたい」
という映像的な企みが先にあった、という読みです。
・編集なしのワンカット構成
・計算された導線
・追いかけるカメラマンの労力
どれも、「2分」という極端に短い制約がギリギリ実現可能なラインに落とし込んでいます。
この場合脚本は、「この条件で撮ってみたい」という欲求からの逆算になります。
特筆すべきは、この読みでも出力される作品の姿が変わらないところ。
2分ノーカット映像のために、
役者はまるで舞台のように途切れないシーンを練習し、
カメラマンは立ち位置・動線を舞台役者の一人のように確定させ、
何度も2分の撮影を繰り返す。
とても舞台稽古的だなと思います。

どちらの方法だったとしてもなのですが、
この解釈だと、より一層
カメラマンも登場人物であり主役ですね。
つまり、映像起点でも脚本起点でも、この作品は最終的に「舞台の構造をそのまま抱えた映像」という、ユニークな着地をしているのです。
まとめ:適した箱
物語には、それに適した箱があると思います。
小説はよかったけど映画はいまいち
漫画とアニメでイメージが違う
短編はいいけど長編でやるには物足りない
これらは、ネタと箱の不一致が原因かと思います。
そういう意味でこの物語は、とてもレアケースです。
推測1なら、
箱は確実に舞台。でもそれだと構造的に成立しない。
なら、舞台の形のまま、入れ物だけ映像を使おう。
推測2なら、
長回しをたくさん撮りたい!
なら脚本の流れを舞台的にしよう!
どちらにしても、【ネタが企みに】【企みがネタに】見事に嚙み合った、異質な傑作と言えるでしょう。

終盤の長距離ダッシュ
カメラマンさんの疲れが見えて好きです。
よかったら実際ご覧になってご確認下さい!

