映画「すずめの戸締まり」2022 感想&考察 震災がギミックになるほど遠くなったことを示す映画

映画

アマゾンプライムで配信中の「すずめの戸締まり」(2022)(121分)を鑑賞。

えいまんぼん
えいまんぼん

監督は「君の名は。」「天気の子」などで有名な新海誠氏。
本作は、前述2作とあわせて『災害三部作』ともいわれる映画です。

九州で叔母と暮らす高校生の岩戸鈴芽(声・原菜乃華)は、ある日通学中にすれ違った美形の青年・宗像草太(声・松村北斗)に廃墟の場所を尋ねられる。

その後、ひょんなことから、廃墟で「戸締まり」を手伝った鈴芽は、彼の家業「閉じ師」について聞く。
地下でうごめく歪み=ミミズを封印し、地震などの災害を防ぐのが彼の役目だという。

そこに現れたのは、ガリガリの子猫。
餌をあげ「うちの子になる?」と鈴芽が問うと、子猫は日本語で返事をし、草太を鈴芽の部屋にある3本足の椅子に変えてしまう。

子猫を追う草太と鈴芽。
向かった先は九州を出る船。

こうして鈴芽の、草太を元に戻すため――そして大災害を防ぐための旅が始まる。

はじめに一言。
筆者はこの映画を、劇場公開時に予備知識なしに観に行き、新海誠本も入手しています。

以下、ネタバレをほぼ踏まずにエンタメとしてこの映画を見た、ただの一般人の見解になります。

えいまんぼん
えいまんぼん

いつもながらネタバレには配慮していません。
ご注意を!

物語の作りとしては、まさに日本縦断ロードムービー。監督の目指した通りに、異形の者と少女が旅をする話であり、ほのかなラブロマンス要素もあり、キャラクターも可愛く……と、明るいテイストの王道エンタメに昇華されています。

ただ、テーマと題材が重い。

劇場公開後に、苦情が原因でポスターやらに「震災を扱ったものである」と明記されたと記憶しています。

しかしながら、筆者はこう考えます。

この映画は「何も考えずに、何も知らずに見て、突然頭をぶん殴られた層にこそ見る価値や意義がある」と。

答えを連想させない順番で出されるヒント

この映画は、美しい星空の幻想的な空間を息を切らして走る子供のシーンから始まります。
主人公・鈴芽が繰り返し見る夢の世界です。

周りには廃墟のような建物が多数あり、少女の吐く息や服装から冬であることは明白。
建物の上に不自然に乗る船なども見られます。

えいまんぼん
えいまんぼん

はい。ここに「地震を鎮める閉じ師」とか出した時点で連想されるのは3.11ですね。

ですが、正直筆者は、描写される世界のあまりの美しさに、ここで3.11を感じませんでした。
おそらく意図的に、情報を出す順番・間隔・美術キャラクターの明るさなどで、3.11を連想しにくくしているというのが、筆者の体感です。

主人公が、幼い頃に母親を亡くして叔母と暮らしていて……と、複雑な家族関係を提示しつつ、同時に最初の舞台を被災地から物理的に遠い九州としているなど、あらゆる工夫で3.11から意識を逸らしている。なんなら、これまで監督が架空の災害を描き続けてきたことも、意識を逸らしにきています。

鈴芽の死生観や、常世との繋がり、足の欠けた椅子、鈴芽の進路など、後から見れば、なるほど! となるシーンは非常に多い。

しかし、現実の震災を扱った映画であると明示する情報となると、最終盤に出てくる日付入りの鈴芽の絵日記だけなのです。

そして、その絵日記のシーンは「あ、やっぱりね」ではなく、「あっ、そうだったんだ…!」を想定した演出になっていると筆者は感じました。

要は、演出上の最大のギミックに3.11を持ってきている映画なのです。

散りばめた伏線から得られる最大の「気付き」として3.11を使っている。
ここが、この映画の肝であると同時に、苦情を出す層を産んだ原因かと思います。

何がそんなにも3.11から意識を逸らしていたのか

これは本当に筆者の体感なのですが、鈴芽の年齢だと思います。

3.11という震災のことは、誰も忘れていないのです。
絵日記の日付だけで、多くの日本人が「これは震災孤児を主人公にした映画だ」と理解したはずです。

しかし、当時被災して母を亡くした幼い少女が高校生になっている、というところまで、直感的に想像できる人は少ないのではないでしょうか?

これは、監督の目指した「場所を悼む話」という面にもリンクすると思います。

忘れられた場所……でも今も確実にそこにあり、時だけが残酷なほど平等に流れている。

被災者でない人間が、3.11を経験した幼い子供がどんな10年を送ってきて、今どんな年齢になっているのかを考えないのと同じように、かつて遊んだ遊園地などの思い出の場所が今まさに廃墟になっていることに考えが及ばない――と結果論として、廃墟自体が、震災孤児・被災者をメタ的に表す構図になっていると筆者は考えます。

答えに気付かなかった層に、一番響く映画

しかしながらこの映画の作りとして上手いところは、演出意図に素直に乗って、素直に騙されて種明かしされる、という、正直頭の悪い見方をした方が、断然楽しめて、かつ、心に残るという点。

前述の通り、3.11後の被災者が劇場公開時にどれ程成長しているか、少なくとも筆者は想像すらしていませんでした。

そして、「もう高校生になるの⁉」と素直に頭をぶん殴られてきました。

要はこの映画は、廃墟の現在を――震災孤児の現在を考えもしない層に向けて、これだけの月日が経っているんです! と明示し、時の流れと、他者人生への想像力のなさを突き付ける構成なんです。

そんな層が、3.11を思い返し、時の流れを実感し、被災者たちが表面的に明るく振舞いながらも様々な葛藤を抱え、それでも残酷なまでに当たり前に「ちゃんと大きくなっている」ことを認識する

――この映画の意義は、まさにそこにあると思います。

正直クレームなど入れている場合じゃないと思います。
言い過ぎかもしれませんが、ほとんど「被災者のその後」に無関心だった層に、たとえ乗り越えられ廃墟のようになったとしても確実にその事実があった上で続く、その後の彼ら人生を、真正面から突き付けて、考えさせているのですから。

最近、あしなが育英会が、「全国の鈴芽たちへ」というキャッチフレーズで、寄付を募るCMを出していますね。

えいまんぼん
えいまんぼん

もう、このフレーズだけで、震災孤児への支援だと分かります。

そんなキャッチコピーが生まれただけでも、この映画は、震災から10年というタイミングで公開された意義があったと思います。

風化はされていないのに、10年後の彼らの姿を想像していなかった層に、「鈴芽」を支援するきっかけを与えているのですから。

自分が他者の人生にいかに想像力を働かせていなかったか気づかせ今できることは何かを考えさせる。

そんな、3.11をわざわざ批判も覚悟でギミックとして取り上げた意義がこの映画にはきちんとあります。

いつかずっと先に見返した時にも、「鈴芽は今年、何歳だろう」を考えられる人間でいたいものです。

以上、まったくネタバレを踏まずに映画を見た層による、個人の見解でした。
ここまでお読みいただきありがとうございました!

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